「25才、社長、世界一周」から「28才、全財産、1900円」を味わった中村ひろきのプロフィール

中村ひろきです。めっちゃ長いプロフィール書きました。

中村ひろきのザックリ経歴
1986年1月名古屋市生まれ。

高卒後、地元の名古屋鍼灸学校へ入学。

21歳・・・鍼灸師の国家資格取得。沖縄移住。

25歳・・・名古屋に帰還。4ヶ月の世界一周。

27歳・・・燃え尽きて全財産が1900円の無職に。

28歳・・・再就職。副業が給料を上回る。

29歳・・・1軒目の中古戸建を280万で購入。月55,000円で賃貸。

31歳・・・2軒目を中古戸建を980万で購入。年間5万円のシェア別荘に。

32歳・・・1軒目の中古戸建を500万で売却。

なんだかすごく波のある人生ですよね(笑)

そんな生き方を見守ってくれた両親に感謝しながら、これまでの人生をザザッと振り返ります。

副会長&野球部主将。才色兼備のクズ小学生。

わりと優秀だった小学校時代。

「学級委員」「副会長」「足速い」など、モテそうな条件をサラッとかき集めたリア充小学生でした。

また、入学時に買ってもらった学習机の世界地図マットが大好きで、早くも海外の魅力にとりつかれます。

このとき同級生に「スーファミやめて中国語勉強しようぜ!」と発言してドン引きされました。

スポーツでは野球部キャプテンを務め、1番ピッチャーの座をゲット。

絵に描いたような才色兼備でしたが、いかんせんメンタルが弱くて大変だったことも。

副会長とキャプテンを任されたプレッシャーで拒食症になったり、司会を任された全校イベントで家から出られなくなったり、このへんはなかなか苦労しました。

 

初めて親に逆らった中学時代

野球部が存在しなかった地元の中学校では、ハンドボール部へ。

またしてもキャプテンを務めましたが、クソ弱かったために不完全燃焼のまま引退。

このままハンドボール人生を終えるのが嫌で、愛知県の公立で一番ハンドが強かった高校へ進むために猛勉強をしました。

このとき、親に「強い高校で控え選手になるより、弱い高校でレギュラーの方がいいんじゃない?」と言われましたが、ぼくは強い高校でレギュラーになることしか頭にありませんでした。

今思えば、ここで強豪校への進学を決めたことが、初めて親に逆らって自分の人生を進んだ瞬間だったかもしれません。

結果的に志望校に合格して、高校2年冬にレギュラー入りを果たすことができました。これには親も大喜びでした。

 

親友との出会いで価値観が180度変わった高校時代

念願叶って入部したハンドボール部は、3年連続で全国出場していた強豪校でした。

レギュラーで出場した2年生の新人選抜では、全国を懸けた試合で持ち前の豆腐メンタルを発揮。

何もできないまま前半を終えたところで「おれ抜けるわ」と自ら控えベンチに消えました。

小学校時代からのメンタルの弱さは、未だ健在だったんですよ。これすごくコンプレックスでした。

いつも試合が終わると「今日はお疲れさまね。」とメールをくれた母親。

夏のインターハイ予選で敗れたときだけ「3年間お疲れさまね。」というメールが届き、中高6年間のハンドボール人生が完全に終わったことを一気に実感して、その場で泣き崩れました。

最後の大会は愛知県3位という結果に終わりました。

そして、高校生活最後の夏休みが迫ってきます。

ほとんどの同級生がセンター試験に向けて猛勉強を始めましたが、ぼくは鍼灸専門学校への進路を決めていたので、必死こいて勉強する必要がなかったんですね。

ここで、土日もすべて部活に費やしていたぼくの「旅したい欲」が爆発します。とにかくオモロイことがしたかった。

そこで、ぼくは教室内を見渡して、受験とは無縁そうな松本くんに声をかけました。

松本くんは、留年生かつ金髪で、異端児でありながらもモテまくる、すごくズルい人でした。

彼に「夏休みにチャリで名古屋から沖縄行かない?」と声をかけたとき、コンビニへ行くみたいなノリで「うんいいよ。」と答えてくれたことは、今でも忘れられません。

2人の高校生男子が名古屋から沖縄を目指した1ヶ月間のチャリ旅は、今までの自分の常識が音を立てて崩れ落ちることの連続でした。

安宿で知り合う人達は、いわゆる大学進学や就職などのレールに乗らず、心から旅を愛している人ばかり。

先生や大人達の言うことに従順でいることが真面目じゃないんだ!

自分の心に潜む純粋な好奇心に素直でいることこそ真面目なんだ!

という価値観に確信を持つことができた、高校3年生の夏休み。

もし他の同級生達のように塾でひたすら受験勉強に打ち込んでいたら、用意されたレールの上を進むだけだったかもしれません。

それほど人生観が激変した1ヶ月でした。

 

1日8時間指圧耐久レースの日々

高卒後は、鍼灸マッサージ師の国家資格を取るべく専門学校へ。

心のどこかで「旅しながらできる仕事に就きたい」と思っていたので、一般的なサラリーマンになるビジョンはありませんでした。

入学直後、4代続く老舗の指圧治療院の先生に声をかけていただき、時給換算300円の修行時代に突入しました。

最初の1年間で指紋は消え、水道はひねれず、親指の感覚を失いました。

お盆と正月以外はひたすら指圧に明け暮れる日々。知人の結婚式や葬式に出席することも許されませんでした。

クソでかい揚げ餃子をひとり50個ずつ食わされたり、ヤクザの患者さんにカカト落としを喰らったり、とにかく心身ともにムチャクチャ鍛えられました。

この荒療治のおかげで学生時代の豆腐メンタルはすっかり消えましたが、一方で、常に心の中には葛藤がありました。

この治療院で修行すれば、一流の治療家になれることは間違いない。

でも、ここにいたら、いつまで経っても旅に出られないかもしれない。

「この修行生活を続けた先には何が待っているだろうか?」

「この修行生活はぼくを旅へ連れてってくれるだろうか?」

そんなことを考え始めたら、あっという間に修行に集中できなくなり、いつしかぼくは治療院をやめるタイミングを考えるようになりました。

 

頭の中は「沖縄」の2文字のみ

代々の兄弟子は、ここで13〜15年修行してから独立開業という流れがルールだったこの指圧治療院。

途中で他の治療院に浮気することも、ここで習得した技を外で試すことも、断じて許さない文化でした。

でも、ぼくはやっぱり旅がしたい。沖縄に行きたい。

高校3年の夏に松本くんとチャリで旅をしてから、沖縄に移住したい一心で鍼灸師を目指してきたのです。

 

その思いが最高潮になったとき、院長先生に沖縄へ渡りたい気持ちを告白しました。

歴史をぶち破って少々申し訳なかったですが、先生にボロクソ言われて泣かされるなどの攻防の末、この治療院を異例の3年間で退職。

専門学校を卒業後、国家試験に合格すると同時に、バイクで日本一周へ旅立ちました。ゴールは沖縄。21歳です。

このとき、ぼくは「頑固」と「信念」の違いを知りました。

方法や手段を曲げない人は頑固な人。

夢や目的を曲げない人は信念のある人。

ぼくは自分が後者であることを信じて、周りから「沖縄に逃げた」「ツライから辞めた」と後ろ指をさされようとも、気にせずに我が道を行くことができたのです。

 

夢だった沖縄移住をかなえた21歳

ゴールの那覇に着いたとき、全財産は10万くらい。

10ヶ月ほど滞在していた1泊1,000円の安宿は、6畳のワンルームに3段ベッド2台というカオスな環境でした。

収入は少なかったけど、500円あれば定食が食べられて、いつでも綺麗な海がすぐそこにある沖縄。

まるで竜宮城に来たような感覚に酔っていました。

 

那覇に「日本一ゆるい治療院」が誕生する

もともと人見知りのぼくにとってストレスも多かった安宿を飛び出し、当時付き合っていた彼女と同棲をスタート。

休日にフラッと離島に行ったり、夕暮れのビーチでたそがれたり、沖縄ライフを超満喫していました。

でも、お互い自分の生活に精一杯ですれ違いが多く、たびたびお金のことですれ違ったんですよね。

「世の中カネかよ・・・」

と痛感したのはこの時期です。

沖縄ではいくつかの鍼灸院や治療院を転々としました。そして、彼女と別れて同棲を解消。

物件情報サイトでたまたま見つけた赤瓦の古民家に住まいを移し、自宅兼治療院を開きました。

人生初の独立。23歳のときです。

「さぁ、一世一代の大勝負だぞ!!」

なーんて気合が入ったわけではありませんでした。

上の看板を見てわかる通り、完全週休二日制で、営業時間は14時から。

午前中はビーチで泳ぎ、夜は予約がなければ北谷の宮城海岸までバイクを走らせて夕陽を観に行きました。

こんなフザケた治療院だったのに、今でも当時の患者さん達が仲良くしてくださることは、本当にありがたいことです。

▲「おもろそうだから」という理由で即決してしまった家賃5万円の赤瓦の物件。車も通れない超がつく路地裏にあり、飛び込みでくる患者さんなんて誰もいなかった。広告費もかけられなかったので、毎日ブログで発信し続けた。

 

▲四畳半の治療室。改装費はゼロ円。とにかくベッド1台置いただけの超シンプルな治療院だった。

 

▲和室のタタミで寝っ転がると、窓の外はこの景色。ずっと憧れていた沖縄のイメージそのままの景色がそこにありました。

 

ダーツの旅で世界一周することに

ゆるゆるな治療院を開業して約半年。

生活できないわけじゃないけど、学びや成長が少ない暮らしに危機感を覚えました。

「このまま薄っぺらい治療家になったらどうしよう?」

これは、名古屋の指圧治療院でクソみたいに鍛えられまくった経験があったからかもしれません。

「また誰かにキツく叱ってもらえる環境じゃなければ、自分は成長できないんじゃないか?」

という想いが日に日に強くなったのです。

このころ高校の親友松本くんは、バイクで事故ったり、飲酒運転で免許を剥奪されたり、波乱万丈ライフを送っている様子でした。

同級生たちは一流企業に就職してガンガン稼いでいるようでしたが、二人は一切不安に思うことはありませんでした。

同級生たちを見下すわけでもなく、嫉妬するわけでもなく、ただただ「二人の今」を謳歌していました。

お盆などの長期休暇に名古屋へ帰ったときも、大半の時間を松本くんと過ごしました。

日雇いバイト面接へ飲酒状態で受けに行ったり、車の屋根にしがみついて死と隣り合わせのドライブをしたり、頭の悪い遊びをしてだらしなく笑っていました。

 

そして、こんなだらしない遊びが転機を生みます。

「ダーツの旅世界地図バージョンやろうぜ!」

23歳のまあまあいい年の二人が、デカい声ですごいベタな企画を思いついたのです。

そしてダーツの矢の刺さった先が・・・

 

フィンランド。

サンタとサウナとキシリトールの国。

ダーツの刺さった正確な場所は「タイバルコスキ」という見知らぬ都市でした。

 

日本でいうところの「宇都宮」くらいのノリでしょうか。

というわけで、フィンランドに行くことになっちゃったんです。

それから二人で行き方を調べているうちにフィンランドを往復するくらいなら世界一周したほうがコスパいいという結論に。

ゆるすぎる沖縄生活に危機感があったこともあり、ここで沖縄生活に終止符を打つことにしました。

「名古屋で集中して1年間でお金を貯めて、世界一周するぞぉおおおお!!!!」

とテンションが上がって、24歳の時に名古屋へ帰還したのです。

このとき、たくさんの友達に「よくそんな鮮やかに方向転換できるよね。」というようなことを言われました。

確かに、今の生活に区切りをつけられず、なかなか次に進めないことってありますよね。

でも、今の生活以上のワクワクを見つけると、いてもたってもいられなくなっちゃうんですよね・・・。

で、大好きな沖縄を離れる記念に、沖縄本島をヒッチハイクで一周しました。2泊3日かけて計32台の車にお世話になりました。

▲ヒッチハイクで沖縄本島最南端の喜屋武岬(きゃんみさき)に到着。ここは高校3年の夏休みに松本くんと過ごした思い出深い場所でもあった。

 

親友との約束を果たすために戻った名古屋の壮絶な1年

名古屋に帰還してからは、1年後の世界一周に向けて、お金のためだけに働くことに決めていました。

そのために、なるべく給料の高い、介護系の社団法人が経営する治療院に就職しました。世界一周のことはモチロン内緒。

なかなかいい職場だったのですが、半年ほど経った頃、タイミングを見計らって社団法人のオーナーに白状しました。

「入社動機は世界一周資金を貯めるためでした。1年で辞めます。ごめんなさい。」

すると予想外の答えが返ってきました。

「そうか。じゃあ、治療院だけ切り離して会社を作って社長をやれ。オマエがいなくても回るシステムを作って、世界一周行ってこい。」

おれが社長・・・?

(なにそれカッケェじゃん・・・)

「押忍!!!!!」

こうして、ぼくは桃太郎電鉄のごとく一瞬で社長に昇格しました。

ぼくが嬉しかったのは「日本に帰国した後も職場が用意されている」ということではありませんでした。

「社長という身分で世界一周ができる」という、いかにもモテそうな肩書きに酔ってしまったのです。

 

社長の肩書きに酔いしれる

▲友達が開いてくれた世界一周直前の壮行会。

ここから華々しいストーリーが始まるかと思いきや、「自分がいなくても会社が回るシステム」を数ヶ月で作ることは想像を絶するツラさでした。

決められた仕事をこなすだけの従業員がどれほどラクか、このとき身に染みて感じました。

早朝から晩までみっちり働いて、夜は週4ペースでオーナーに連れられて高級クラブで朝5時まで飲み歩く生活。

肌は荒れ、意識はもうろうとし、体重は人生マックスの67キロ。学生時代の指圧治療院での修行がクソみたいに感じました。

「このオーナー、世界一周行く前におれを殺そうとしてね?」と本気で思いました。

オーナーから与えられた仕事は、会社をスムーズに回すことだけではありませんでした。

  • 120人規模の社員を抱えた社団法人全体の忘年会の企画と司会
  • 訪問看護ステーションの立ち上げ
  • 休日の接待ゴルフ

など、華々しい社長職のイメージとはかけ離れた仕事ばかりでした。完全にオーナーの犬でした。

社長になったぼくは完全に調子に乗り、世界一周資金を貯めるという大目的を失いかけました。

車も、家賃も、ケータイも会社の経費で落としていたにも関わらず、1年間で貯まった資金はたったの100万ちょっとでした。

 

松本くんがBMWを衝動買いする

そろそろ航空券を予約しようか、という時期にさしかかったころ。

松本くんからBMWを購入してお金が尽きたと連絡がありました。

ぼくも松本くんも我慢をしないで生きることが信条ですから仕方がありません。

結局ひとりで世界一周をすることになった出発直前、松本くんがBMWに乗って颯爽と自宅に現れ、小野まゆみの写真集をプレゼントしてくれたことは一生の思い出です。

「日本人女性の素晴らしさを海外に広めてきてね!」

と言い残して、彼はまたBMWで去って行きました。

結果的にぼくはひとりで世界一周に出発しましたが、親と銀行から借金をした松本くんとフィンランドで合流し、10日間ほど2人で旅しました

 

「25歳、社長、世界一周。」

社長という肩書きを背負って海外に飛び出したとき、ぼくは初めて「世界中のどこにいても仕事が成立している感覚」を体験しました。

「場所にしばられないってスゲエ!!」

とひたすら感激しました。

一方で、時々届くオーナーからのメールにビクビクしたり、社員とスカイプで会議をするために時間を微調整することは、なかなか精神的なストレスでした。

時間と場所にはしばられたくないけど、雇ったり雇われたりすることは不向きだな、という自分の性質に気づけたのは大きな収穫でした。

 

南アフリカのヨハネスブルグで死にかける

世界最恐都市と呼ばれていたヨハネスブルグで宿に滞在してたとき、外出中にルームメイトと黒人グループがトラブルに。

ブチ切れした黒人が銃をチラつかせてきた時、ぼくは死を覚悟しました。

そのときぼくはどうしていたか。

興奮するわけでもなく、足が震えるわけでもなく、ただただ呆然とその場に立ち尽くしていました。

まるで、目の前で上映されている映画を眺めているように。

あのときそのまま撃たれていたら、どんなにあっけない一生だったでしょうか。

でも、そんな一生でもいいかと思えるくらい、そのときは冷静だったんですよね。

ずっと夢だった世界一周の旅が実現したから、死んでもいいほど幸せだった。

そう、ぼくが20代で一番幸せだったことって、死んでもいいと思えたことなんですよ。

 

社長をクビになる

帰国後は、オーナーに恩返しすべく仕事に全力を注ぐはずでした。

でも、思うように体が動きませんでした。そう、重度の燃え尽き症候群です。

仕事で大きなミスを連発するだけでなく、オーナーを助手席に乗せた車を運転している時、信号待ちで寝てしまう始末。

いくら集中しようとしても、もう何も手につきませんでした。

結局、オーナーのやり方と合わなかったこともあり、社員と一緒に会社から逃げるように退散しました。

世界一周に行かせてもらった恩は返さなければいけませんでしたが、ただただオーナーの犬でしかない環境は長続きしませんでした。

 

「28歳、全財産、1900円。」

お金も肩書きも一瞬で失ったぼくは、最後の給料だった37万円を握りしめて、無職のまま引っ越すことに。

会社から寝るためだけに帰っていた家を見るのがイヤになり、とにかく環境を変えたかったのです。

都会好きのぼくは、名古屋駅の徒歩圏に住むことに決め、最初に見学した家賃7万円のワンルームで即決。

ここで「フツー次の職場決まってから引っ越すだろ!?」と父親に激怒されました。

そんなことはお構いなしでしたが、ミニミニの美人な店員さんに初期費用の見積もりを手渡されたとき、早くも後悔しました。

全財産の37万円に対して、契約時費用の合計は39万円だったのです。

当時は祖父母が住んでいた家で一人暮らししていたので、古いタンスや引き出しをひっかきまわせば2万くらい出てくると思い、必死に現金を捜索しました。

すると、古い引き出しの奥の方からくしゃくしゃになった茶封筒を発見しました。

すかさず振ると、チャリチャリ音がするではありませんか。

我を忘れて茶封筒をひっくり返すと

亡き祖父の理解不能なコレクションが明らかになりました。

結局、母親にこっそり2万円借りることに成功。身の丈に合わない都会暮らしがスタートしました。

治療技術を学ぶために接骨院で働き始めましたが、なんとなく予想していた通り収支バランスが絶望的に悪く、あっさり家賃を3か月滞納。

住民税や国民健康保険も払えるはずがなく、50万近く支払いが滞りました。

親友の松本君の結婚式が終わったとき、全財産はたったの1900円。

親友のご祝儀に1万円しか出せなかった時は、さすがに情けない気持ちでいっぱいでした。

そんなときでも自己啓発本を買ったり、友達にご飯をおごったりすることはやめませんでした。

メチャメチャ見栄っ張りなので、友達に「お金ねぇわ」なんて恥ずかしくて死んでも言えませんでした。28歳です。

 

1日17時間労働を2ヶ月続けた結果

そのころ感銘を受けた「大富豪アニキの教え」という本の影響で、どこまで長時間労働に耐えられるか試してみました。

・8〜16時までパチンコ
・17〜21時まで接骨院
・22〜27時までホテルの客室マッサージ

しかし、やったことすらないパチンコのバイトが辛すぎて、ある朝、店をスルーしてそのまま名古屋から京都へ逃亡しました。

それと同時に、ホテルの客室マッサージは過労で就労不能と判断されてクビになりました。

2つの仕事を数ヶ月で失いましたが、接骨院の給料だけでは生活できないため、再び職を探すことに。

このとき職を探すのは大変でしたが、17時間労働から解放された喜びは計り知れませんでした。

ここで17時間働くとぶっ倒れる法則を発見したおかげで、これ以降ブレーキとアクセルの調節ができるようになったのです。

 

「止まない雨はない」はマジだった

「せっかく持ってる国家資格活かしたら?」という友達の指摘を受け、ハローワークで見つけた会社で働くことに。

老人ホームへ訪問治療する会社ですが、このとき拾ってくれた社長には、家賃滞納の件などをすべて話すことができました。

そして、給料を前借りさせてもらったり、社用車をプライベートで使わせてもらえたおかげで、久しぶりにフツーの人間の暮らしができるようになりました。

20時に仕事が終わることが死ぬほど嬉しくて、50万もの支払いを滞納していることを忘れそうになるほどでした。

この社長には今もお世話になっていて、自営業や不動産投資をしながら正社員として働かせてくれることに本当に感謝しています。

会社で働き始めて生活が安定した頃、自分の治療院を立ち上げ、ダブルで働きました。

ダブルといっても、せいぜい9時から21時程度のこと。

これまで17時間の重労働を経験済みのぼくにとっては楽勝でした。

そして、29歳になる頃には、自営業の収入が会社の給料を上回っていました。

 

1軒目のボロ家を280万で購入。

▲記念すべき1軒目の物件を280万で購入。問題ありまくりの物件だったが、リフォーム屋のおっさんに全面的に協力してもらう。

このダブルワークのおかげで、50万近くあった家賃や税金の滞納をついに完済。

背負っている荷物は、下ろした時に初めてその重みに気がつくことを知りました。

1ヶ月の収入から、諸々の支払いを差し引いても、毎月30万ほどお金が余るようになったのです。

このとき不動産投資の本を読みまくり、「最速でお金持ちになる絶対法則」の著者紺野健太郎さんに会いに行くことに。

六本木ヒルズの52階で不動産投資のアドバイスを受けて、念願の1軒目を購入。280万のボロ家です。

ちなみに本当にやりたかったのは一棟モノ。そこから戸建を買うに至った経緯は「ぼくが一棟アパートを断念して中古戸建に投資した経緯を話す」で説明しました。

結局この物件は家賃55,000円で賃貸することができ、年間家賃収入66万円を達成しました。

この物件の初期費用については「不動産投資にかかる諸費用は?280万円の物件は総額○○円でした。」にまとめてあります。

 

2軒目は980万の戸建。シェア別荘に。

2軒目の中古戸建は長野県松本市で購入。1150万円を980万にしてもらいました。

この物件も賃貸に出すつもりだったのですが、あまりにも風光明媚なため、しばらく別荘として遊ぶことに。

年間5万円で使えるシェア別荘ロップ家」をオープンし、別荘がほしい人を集めてワイワイやっています。

この物件のスペックなどは「2軒目の長野県松本市物件を決済しました!」に詳しく書きました。

 

1軒目は500万で売却できました。

▲196万でハーレーファットボーイを購入。名古屋と松本を往復して遊んでます。

1年半ほど家賃収入を生み続けてくれた1軒目の戸建は、無事500万で売却することができました。

売却理由は、もともとあまり丈夫なつくりでなかったことと、人口が減少していくエリアであったこと。

売る直前に台風による雨漏りで100万ほど修繕にかかったのは痛手でしたが、購入した額の倍近くで売れたおかげで勝ちの投資でした。

今後も、地方の戸建を買いながら実績をつくって、いずれはマンションや一棟モノに挑戦したいな〜〜と思ってます!

 

おわりに

長々と読んでくださりありがとうございます。

波の多い人生でしたが、不動産を買うようになってから徐々に心身共に安定してきたような気がします。

生きていくために給与はとりあえず安定資産なんですが、これから先、どうなるかなんてわかりませんよね。

一夜にして世間の常識が変わる、なんてことはフツーに起こりそうな気がしてます。

そんなときは荒波と戦ってきたぼくですらメンタルがもつかわからないので、今のうちに資産づくりに励む次第。

このブログでは、はじめて不動産投資を学ぶ方のために極限までやさしくお教えてしますので、わかりにくい点があったらご指摘いただけるとありがたいです。

最後までほんとうにありがとうございました。

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中村ひろき


32歳/週4サラリーマン。ハーレーに乗りながら名古屋と長野で二拠点生活してます!不動産投資の経験ゼロの方が1軒目を買うまでのノウハウを発信中。岐阜と長野に計2軒の中古戸建を所有しています。『中村ひろき公式ブログ』も運営中!

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